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老いていく日々 新しいパソコン

20年近く使ったパソコンが壊れて、今日、新しいのが来ました。これに慣れるまでにだいぶ時間がかかりそうです。老いるということは、新しいものに慣れないということ、今も、恐る恐るやっています。
ということで、今月は、これで失礼します。

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2022-07-20 18:10

老いていく日々

2022.5.20

       転倒予防の日々

 
最近話題の、和田秀樹先生の「80歳の壁」を読んで、しみじみ、80歳は大きな壁だ
なあと納得しました。私の友人の作家(男性)も、つい最近80歳で亡くなりました。肺がんでした。4月半ばに会った時、「腰が痛い」としきりにいっていましたが、その後「肺がん」と手紙がきてびっくりしている直後に、訃報が届いたのでした。
女性でも最近、80歳前後で2人、がんで亡くなりました。その一人は、生涯一度もタ
バコを吸ったことがないのに、発見された時は「肺がんの4期」というので、ほんとうに驚きました。
私は、60歳を過ぎた頃から、「がん検診」を受けていて、今のところは「問題なし」と
いうことですが、先のことは分かりません。80歳を過ぎると、いつ何があってもおかしくないと覚悟させられますね。90歳を過ぎてもまだ元気、地位にしがみつき、権力欲、有名欲、金銭欲にとりつかれている方もいますが、お幸せな方というべきか、みっともないというべきか、言葉がみつかりません。
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 和田先生はご本でしきりに「歩く」をすすめておられます。私も70代半ばまでは朝か夕に1万歩を目指して歩いており、30分筋トレにも行っていたのですが、70代後半に転倒事故が3回続きました。いずれも道路で、です。道路は歩くのが危険です。その一方、病院の平な廊下でけっ躓いて転倒した人を目撃したこともあります。
歩くのが健康にいいといわれても、転倒が恐いですね。杖をつけばいいのでしょうが、それも・・・(杖を置き忘れる!)ということで、現在はトレーニン・ジムで、ウオーキング・マシンを使って週2回、各1キロ歩いています。ジムでは他にも、自転車漕ぎ2キロ、腿の筋肉運動などもやっていて、歩行能力維持に努めていますが、80過ぎると一寸先は「闇」というのが実感です。「転倒」は「予防」出来るものなのか、知人には、「外出はすべてタクシー」という方もいます。こういう「金つき転倒予防」というものもあるけれど・・・、などなど悩みは果て無しです。
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 老後の大敵は「退屈と孤独」と、若い頃から知っていました。今、「老後」という時期になってみると、しみじみこの言葉の重要性を思います。
 しかし、その一方で、大学卒以来60年近く働いてきたんだから、『退屈』で、『孤独』で、それでもいいんじゃないの?と思うこともあるのですよ。ある生き方に当てはめないでくださいと・・・。
昔、老人ホームでボランテイアをしていた時、いつも庭をぼんやり眺めている人がいて、職員さんとも「あれで退屈しないのかしらね」なんていっていたのですが、その方に近い年齢になってみると、「ぼんやり」していることの素晴らしさに気づくようになりました。
ぼんやりと木々を眺めて、昔を思い出す、ぼんやりと時の流れに身を浸すありがたさ。一日誰とも喋らず、沈黙のうちに終えるのも、またよきかな。
テレビをボーと眺めて、見飽きた広告にうんざりする一日、夜寝る時、「今日も退屈だったなあ」「孤独だったなあ」と思う瞬間の不幸感と幸福感。「生きがいなんて、なくていいのさ」と思うことの幸福と不幸。
 以前、この欄で書いたように思いますが、年寄りに必要な三つのもの。
○ きょうよう=今日の用事
○ きょういく=今日行くところ
○ きょうがく=今日学ぶこと
 まだ70代だった頃は、「そうだ。そうだ」と思いましたが、80代になってみると「そう、いわれてもなあ・・・」と困惑する私がいます。「今日することもなく、行くところもなく、学ぶところもなく」ぼんやりと過す、「おかげで、今日も転ばなかったよ」、これぞ老いの醍醐味ではないかと思う私は、ボケまっしぐらなのかもしれませんね。 
 老いに必要なのは、転倒を恐れないことだと、転倒したらした時という覚悟かもしれないと思ったりもします。


インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2022-05-20 10:38

老いていく日々

2022.4.20

           人様の情け
 2.3日前、風が強くて大雨だった日がありました。
 この日私は、午後ジムに行く日でした。出掛け、帽子をかぶって行こうかどうしようか、少し迷ったのですが・・・。
ここからが無意識の行動でした。ジムでのレッスンを終えて、ロッカー内を見た時、帽子がありません。一瞬「あれ?」と思い、「やっぱり、かぶってこなかった」んだと納得したのです。傘があるのだから、帽子を被る必要性はないのですね。帰り道、同じ道を帰ればいいのに、図書館に行こうと別の道を歩きました。
家に帰りついて、帽子の置き場所を見て、「えっ」と、絶句・・・。帽子がないのです。
「やっぱり、被って出て、落としたんだ・・・」
この無意識の行動・・・。
以前に、2回もお気に入りの帽子をなくして、この帽子だけは・・・と思っていたので、驚くやら、情けないやら・・・、がっかりしました。すぐ探しにいこうとしたのですが、ひどい大雨で、しかもすっかり暗くなっています。すべって転んでは一大事です。
その夜は、「今頃探しに出てもないだろう」と、痛む胸のまま就寝しました。
翌朝風も雨も止んでいて、5時半に目覚めた私、「探しに行こう」と。
無いだろうなあと思いつつ10分ほど歩いた時、帽子を発見しました。通りの横のベンチに、置かれてありました。勿論、雨に濡れてくたくたになっていましたが、確かに私の帽子です。どなたかが道で拾って、ベンチに置いてくださったのですね。
「ありがとうございました!!」
何回いってもいい足りない思いでした。
たかが帽子といえども、されど帽子。大切にしていたものを落として、それを拾ってくださった方がいたということに、深く感謝しました。人様の情けほどありがたいと深く、深く思いました。
それにしても、無意識のうちにやってしまう行動。これからは、何事もきちんと確認しなければならないと改めて、自分を戒めました。
              *
それにしても思い出すのは、戦火を逃れて、避難したウクライナの方々のことです。
持てる範囲を身につけて祖国を出て、大切なものを多く我が家に残してきたに違いありません。その中には、帽子なんかよりももっと大切なもの、アルバムだったり、記念の品々だったり、愛用の食器だったり、たくさんの大切なものを残して逃げたことでしょう。
その人々の家々を爆弾で壊してしまう隣国の暴力。家はおろか、命すら奪われたたくさんの人々。子どもや恋人を奪われた方もいることでしょう。どれほど辛く、悲しんでいることでしょう。胸の痛みはどれほど強いものでしょう。思うだけで、私の胸も痛みます。これは、世界中の人々の思いではないでしょうか。たった一つの帽子を失くしたと思った時の、あの胸の痛さ。避難民の方々の胸の苦しさに、改めて思いを馳せたのでした。
食事時に破壊された町の画面を見ると、チャンネルを変えてしまいます。あまりの悲惨さに、見続ける勇気がありません。食欲を失います。
ロシア人はなぜ侵攻するのでしょうか。何が欲しくて、無辜の人々の日常破壊するのでしょうか。多くの人を殺し、町を壊し、祖国を奪おうとしているその残酷さに、怒りが込みあがります。
イソップ童話「北風と太陽」ではありませんが、人の心に届くのは絶対に太陽です。人の情けです。「人様の情け」これこそが、平和の基本であり、武器という北風は人の心に背くものです。
たった一個の帽子から、世界の紛争地の方々への苦しみに、しみじみ思いを馳せたのでした。


インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2022-04-19 20:40

老いていく日々

2022.3.20
          伝統行事と女性の未来

 早いもので、今年ももう3月。それも終わりの時期です。
 3月は、雛飾り、国際女性デーなど、女性関連の行事が注目されますね。
 雛飾りについては、ある有名女性が、「お内裏様もお雛様も同じ高さの壇に座っているから、男女平等だ」といったそうです。
 これを聞いた時の、なんともいえない不快感は、我ながら不思議なくらいです。古来の伝統行事に、ジェンダー論を入れ込んできたことに何かもやもやしたものがありました。「伝統は伝統として大切に」「そこに勝手な解釈を入れない」そこを踏み越えられたような感じ・・・とでもいいましょうか。こう思う私が変なのでしょうか。
 折も折、テレビの番組で「博士ちゃん」というのがあって、賢い子どもさんが、[古事記]の由来からひな祭りを説明していました。彼によると、お内裏様はスサノオノミコト、お雛様は姉の、アマテラスオオミカミということだそうで、びっくりしました。なんとなく「夫婦」「結婚式」などを想像していましたので。
 その後、なぜお内裏様が向って左なのか、ネットで調べてみましたら、関東では「向って左」、京都では「向って右」なんですね。お顔立ちも少し違うようです。ここにもいろんな解釈があるようですが割愛します。所が違えば、「場」も「顔」も変わるということですね。
 関東では、結婚式の花婿・花嫁の座り方は、男性が向って「左」。関東式のお内裏様の位置です。これは「オレの右に出るものはいない」ということだと聞きましたが、本当でしょうか。京都では、どのような理由で、「向って右」なのでしょう。
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 国際女性デーは、さまざまなジェンダー関係の数字が語られました。
 毎日新聞の上東麻子さんによれば、世界経済フオーラムの「ジェンダーギャップ指数」は、2021年で156カ国中120位。これは大変話題になった数字ですね。他には、「国会議員の女性比率」140位、「管理職に占める比率」139位。公的な場における女性の比率の圧倒的な低さに驚きます。他に「教育」92位、「健康」65位。
 もう20年近く前になりますが、日経連の理事の方とお話する機会があって、その時その方が、こういわれたことを思い出します。
「国際会議などに出る、各国とも女性の代表者が座る。だが、日本はゼロなんだねえ。何かはずかしい思いでしたよ」
当時より状況はよくなっているのでしょうが、それでもこの数字です。
 その反面、日本の男性の無償労働時間は、1日「41分」。データのある30か国中最長ということです。これまた稼ぐ男という、根強い性別役割分業意識のせいでしょうか。
                *
 もう一つ、気になることがあります。昨年の令和3(2021)年6月23日、最高裁判所は「民法第七五〇条は合憲である」という判決を出したことです。
民法七五〇条「(夫婦の氏)夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」
この裁判は、三組の夫婦が訴えた訴訟に対する判決文です。
「同じ名字(姓)でなければ結婚を認めないという法律の規定は、憲法違反だ」と。
15人の裁判官のうち「合憲」としたのが11人、「違憲」としたのは4人に過ぎなかったのです。これほど私を驚かせ、嘆かせたものはありませんでした。選択的夫婦別姓の制度は世界の潮流であり、私が調べた範囲でも40数カ国にのぼります。
私の姓は、妻の姓で、わずか4パーセントに過ぎなせん。その4パーセント組がいかに世の偏見を受け、涙とストレスで生きてきたか・・・。
朝日新聞の調査によれば、別姓の選択制について、全体の67%が賛成しています。18~20歳では、じつに80%が賛成で、60~69歳でも69%が賛成しています。
昨今、未婚率があがっていますが、内閣府調査では、「結婚したくない理由(20~30代」では、女性の26%が「名字・姓が変わるのが嫌・面倒」と答えています。女性にとっては「名字」「姓」が、結婚のネックになっています。
国際女性デーでは、この問題が話題にならなかったのではないでしょうか。昨今では、多くの職場が通称使用を認めるようになっており、日常的に不便を感じないということでしょうか。でもパスポートなどでは、おおきな不便があると聞きますが。
3月は、ほんとうにいろいろなことを考えさせられる月ですね。
卒業などで新しく社会にとび発つ、皆様、どうぞこういう社会を変えていってくださいますように。


インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2022-03-18 12:14

老いていく日々

老いていく日々
2022.2.20

           記憶について

 今日は、「2」がならぶ大変貴重な日です。でも「22日」はもっと貴重です。2022年2月22日、「2」の字が並ぶのですから。
次に「2」が並ぶのは、2222年2月22日でしょうか。あと200年後ですね。どんな時代になっているのか、見てみたいものですが、そればっかりは・・・、残念ながら・・・ですね。閑話休題!
              *
加齢とともに、記憶力が落ちるというのは常識のようなものですが、私も最近、思い出せないことが多くなってショックを受けています。
数年前、友人が推理小説を読んだとのこと。読み終わってショック。最後の頁に既読のマークが押してあったというのです。
「前に読んだなんて、まったく思わなかった。どれも新鮮だったのよ。読了マークを見て、ほんとうにショックを受けたわ」
この時は、へえ、そんなこともあるんだと思っていたのですが、最近、私にも起こりました。まことにショックです。
ある小説を読んだのです。大変評判で、入手困難。図書館に申し込んで、随分待たされた後、読むことが出来たのです。昨年秋のことです。
ところが最近、「ええっと、あの本の内容は何だったかしら」
作家名や作品名は思い出せるのに、内容はまったく思い出せないのです。まるで、白紙の本でも眺めたみたいなのです。
「私にも、同じことが起きた!」
驚きました。ただ、評判ほどにはおもしろくなかたという感想だけは残っています。
「知識は忘れるけれど、感情は残る」
ということでしょうか。
別の同年齢の友人は、数年前、ある講師の講演を私と一緒に聞いたのですが、その講演を聞いたこと自体をすっぽりと忘れています。
「私と二人で、先生をエレベータの前までお見送りしたじゃない」
といっても、記憶にないというのです。彼女の場合は、「行為」そのものをすっぽりと忘れています。私の場合は、「本を読んだ」という記憶はあるので、多少は救いを感じるのですが、それでも記憶力の衰退には衝撃を受けています。
            *
最近、思うことは、「置き場所を変えてはいけない」ということです。
どういうわけか、最初に置いたところは良く覚えているのに、次に置いた場所が思い出せません。まことにまことに不思議なことです。しばらく探し回って、「あ、ここにあった」となるのですよ。
よく認知症の方の「もの盗られ」幻想がいわれます。これは、海外の高齢者にもあることで万国共通の悩みです。しかも、「盗った」といわれるのは、たいがいが、介護者。頼りにしなければならない人、親しい人が、もの盗られ幻想の被害者になります。これも不思議なことです。一般的には、「一緒に探しましょ」といって、自分で「あ、ここにあった」と仕向けるのがいいといわれていますが、介護者にしてみれば不愉快なストレスですね。
私もその手前に来ているのではないか、そう思うと加齢の残酷さに身が竦みます。記憶力の減退が、ついに私にも来たかと、少し落ち込んでいます。
思い出すのは、こんな言葉です。
「年寄り笑うな来た道や。こども叱るな来た道や」
私も、自分の記憶力減退を自覚しながら、おとなしく、他人様を責めることなく、静かに生きていきたいものと思います。物の置場所を変える時は、よくよく記憶に留めるように自覚するようにします。


インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2022-02-19 12:36