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生きていく日々に

2019.8.13

 トイレットペーパーの怪

新幹線のホームには心地よい秋の風が吹いていて、私は颯爽と歩いていました。
ふと車内の方を見ると、中年の女性が車中から私に向けて手を振っています。なにやら「こっちこっち」と手招きしながら、本人はデッキの方に通路を走りだしました。
 いやだわあ、恥ずかしい。
みんなこっちを見てるじゃない、有名人でもないんだから、そんな派手なアクションしないでよね、それとも読者さんかしら。握手して欲しいとか?
などなど内心つぶやきつつデッキに近づくと、彼女は身を乗り出すようにして叫びました。
 「あなたァ、スカートの下からトイレットペーパーが出てるわよ~~」
 えっと驚いて後を見ると、なんとトイレットペーパーの端切れが、秋風にはためいているではありませんか。
              *
 どうりで、人々がこちらを見るはず。
ああ、ハズカシ。紙を始末した私を見て彼女は満足気にうなずき、車中に戻っていきました。握手だなんてとんでもない妄想。うぬぼれもいいところ。
 やれやれ。恥多き人生とはいえ、かくなる仕儀もあるのですか。
いやはやですねえ。
ご親切なあなたさま、ほんとうにありがとうございました。多くの人が見て見ぬふりをしているというのに、あなたは、立ち上がり、手を振って私を呼んでくれて。
             *
 原因は、停車間際にトイレに行ったことです。駅からの道中が長いと聞いていました。車に乗る前にトイレに行く必要があると思ったのです。
駅のトイレに行けばいいのですが、お迎えの人を待たせてはいけないとか、会った人にいきなりトイレというのも恥ずかしいとか、もし、ガクト様に似たイケメンだったら・・・なんて、余計なことを想像するからこんな羽目に陥ったのでありました。
              *
 膀胱に限らず、老いるにつれて頭や身体に変化が起きてきます。父はよく
「そのトシになってみなければ分からないことがあるんだよ」
と、いっていましたが、こういうことだったのかと、この頃では実感すること多々であります。
 最近の私、“忘れる”ことの不安が多くなりました。
“A”のことをやっていて、その最中に「そうそう“B”もしなくちゃ」と思い出します。ずっと忘れていたものを、なぜか思い出すんですねえ。そこで頭をもたげるのが、忘れることへの不安。じゃあ、忘れないうちにちょっと“B”をやるかと、“A”を中断します。
するとなぜか、そうそう“C”もあったけ、そっちを先にしようなどと“C”をやり出します。それでもう“A”のことなどすっかり忘れて、下手すると“B”も中途半端になったまま。
 「うちの親ときたら、あれをやったりこれをやったり、一つもまとまらないんだから」
 などと家族に叱られる多動性は、この“忘れる不安”にあるのだと最近しみじみ自覚しています。もし“A”をやっている最中に“B”を思い出しても、そのままやっていると、“B”はすぐ忘れるし、ましてや“C”を思いだすことはありません。
うーぬー、やってきたか認知症の道。
自戒するのは、忘れることを恐れないこと。あれこれ多動的にならないこと。
 でもねえ、トイレに行くことを忘れるとその後の悲劇が・・・。忘れる勇気と忘れない慎重さ、老いるっていうバランスが必要なんですね。
でもこんな発見もあるのですから、老いも結構おもしろいものですね。


インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2019-08-13 13:57

生きていく日々に

2019.8.13

 トイレットペーパーの怪

新幹線のホームには心地よい秋の風が吹いていて、私は颯爽と歩いていました。
ふと車内の方を見ると、中年の女性が車中から私に向けて手を振っています。なにやら「こっちこっち」と手招きしながら、本人はデッキの方に通路を走りだしました。
 いやだわあ、恥ずかしい。
みんなこっちを見てるじゃない、有名人でもないんだから、そんな派手なアクションしないでよね、それとも読者さんかしら。握手して欲しいとか?
などなど内心つぶやきつつデッキに近づくと、彼女は身を乗り出すようにして叫びました。
 「あなたァ、スカートの下からトイレットペーパーが出てるわよ~~」
 えっと驚いて後を見ると、なんとトイレットペーパーの端切れが、秋風にはためいているではありませんか。
              *
 どうりで、人々がこちらを見るはず。
ああ、ハズカシ。紙を始末した私を見て彼女は満足気にうなずき、車中に戻っていきました。握手だなんてとんでもない妄想。うぬぼれもいいところ。
 やれやれ。恥多き人生とはいえ、かくなる仕儀もあるのですか。
いやはやですねえ。
ご親切なあなたさま、ほんとうにありがとうございました。多くの人が見て見ぬふりをしているというのに、あなたは、立ち上がり、手を振って私を呼んでくれて。
             *
 原因は、停車間際にトイレに行ったことです。駅からの道中が長いと聞いていました。車に乗る前にトイレに行く必要があると思ったのです。
駅のトイレに行けばいいのですが、お迎えの人を待たせてはいけないとか、会った人にいきなりトイレというのも恥ずかしいとか、もし、ガクト様に似たイケメンだったら・・・なんて、余計なことを想像するからこんな羽目に陥ったのでありました。
              *
 膀胱に限らず、老いるにつれて頭や身体に変化が起きてきます。父はよく
「そのトシになってみなければ分からないことがあるんだよ」
と、いっていましたが、こういうことだったのかと、この頃では実感すること多々であります。
 最近の私、“忘れる”ことの不安が多くなりました。
“A”のことをやっていて、その最中に「そうそう“B”もしなくちゃ」と思い出します。ずっと忘れていたものを、なぜか思い出すんですねえ。そこで頭をもたげるのが、忘れることへの不安。じゃあ、忘れないうちにちょっと“B”をやるかと、“A”を中断します。
するとなぜか、そうそう“C”もあったけ、そっちを先にしようなどと“C”をやり出します。それでもう“A”のことなどすっかり忘れて、下手すると“B”も中途半端になったまま。
 「うちの親ときたら、あれをやったりこれをやったり、一つもまとまらないんだから」
 などと家族に叱られる多動性は、この“忘れる不安”にあるのだと最近しみじみ自覚しています。もし“A”をやっている最中に“B”を思い出しても、そのままやっていると、“B”はすぐ忘れるし、ましてや“C”を思いだすことはありません。
うーぬー、やってきたか認知症の道。
自戒するのは、忘れることを恐れないこと。あれこれ多動的にならないこと。
 でもねえ、トイレに行くことを忘れるとその後の悲劇が・・・。忘れる勇気と忘れない慎重さ、老いるっていうバランスが必要なんですね。
でもこんな発見もあるのですから、老いも結構おもしろいものですね。


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生きていく日々に

2019.8.13

 トイレットペーパーの怪

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ふと車内の方を見ると、中年の女性が車中から私に向けて手を振っています。なにやら「こっちこっち」と手招きしながら、本人はデッキの方に通路を走りだしました。
 いやだわあ、恥ずかしい。
みんなこっちを見てるじゃない、有名人でもないんだから、そんな派手なアクションしないでよね、それとも読者さんかしら。握手して欲しいとか?
などなど内心つぶやきつつデッキに近づくと、彼女は身を乗り出すようにして叫びました。
 「あなたァ、スカートの下からトイレットペーパーが出てるわよ~~」
 えっと驚いて後を見ると、なんとトイレットペーパーの端切れが、秋風にはためいているではありませんか。
              *
 どうりで、人々がこちらを見るはず。
ああ、ハズカシ。紙を始末した私を見て彼女は満足気にうなずき、車中に戻っていきました。握手だなんてとんでもない妄想。うぬぼれもいいところ。
 やれやれ。恥多き人生とはいえ、かくなる仕儀もあるのですか。
いやはやですねえ。
ご親切なあなたさま、ほんとうにありがとうございました。多くの人が見て見ぬふりをしているというのに、あなたは、立ち上がり、手を振って私を呼んでくれて。
             *
 原因は、停車間際にトイレに行ったことです。駅からの道中が長いと聞いていました。車に乗る前にトイレに行く必要があると思ったのです。
駅のトイレに行けばいいのですが、お迎えの人を待たせてはいけないとか、会った人にいきなりトイレというのも恥ずかしいとか、もし、ガクト様に似たイケメンだったら・・・なんて、余計なことを想像するからこんな羽目に陥ったのでありました。
              *
 膀胱に限らず、老いるにつれて頭や身体に変化が起きてきます。父はよく
「そのトシになってみなければ分からないことがあるんだよ」
と、いっていましたが、こういうことだったのかと、この頃では実感すること多々であります。
 最近の私、“忘れる”ことの不安が多くなりました。
“A”のことをやっていて、その最中に「そうそう“B”もしなくちゃ」と思い出します。ずっと忘れていたものを、なぜか思い出すんですねえ。そこで頭をもたげるのが、忘れることへの不安。じゃあ、忘れないうちにちょっと“B”をやるかと、“A”を中断します。
するとなぜか、そうそう“C”もあったけ、そっちを先にしようなどと“C”をやり出します。それでもう“A”のことなどすっかり忘れて、下手すると“B”も中途半端になったまま。
 「うちの親ときたら、あれをやったりこれをやったり、一つもまとまらないんだから」
 などと家族に叱られる多動性は、この“忘れる不安”にあるのだと最近しみじみ自覚しています。もし“A”をやっている最中に“B”を思い出しても、そのままやっていると、“B”はすぐ忘れるし、ましてや“C”を思いだすことはありません。
うーぬー、やってきたか認知症の道。
自戒するのは、忘れることを恐れないこと。あれこれ多動的にならないこと。
 でもねえ、トイレに行くことを忘れるとその後の悲劇が・・・。忘れる勇気と忘れない慎重さ、老いるっていうバランスが必要なんですね。
でもこんな発見もあるのですから、老いも結構おもしろいものですね。


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生きていく日々に

2019.7.7

 ブラブラおじいに乾杯

 その方の家は、駅に向かう道筋にあります。ここ数年、よくブラブラ歩いています。聞くところによれば仕事を息子さんに譲ったそうです。今は多分八十代に入ったところでしょうか。足元が少し危なくなってきたようですが、それでも、いやそれだからこそ、一生懸命にブラブラしているようなのです。とても優しそうな顔をした方で、穏やかな雰囲気の方なのですが、狭い道をふさいでいますので、なんとなく邪魔に感じます。
        *
もしかたして、私が通るのを待っているというの?
まさかあ、老いらくの恋っていう風情じゃないよ。モモ引きにサンダル履きじゃさあ。
その昔、私が通るのを待っていた中学生がいたっけなあ。ふふん。
 昔のことはともかく、今私はこの道を歩かねば駅に行かれないのです。私が近づくと、なんとなく無視しようとしている態度にも思えます。あるいは照れていて、さあどうしようかと、内心うろたえているかのかもしれません。顔を反対方向に向けて、何かを見ているふりをします。
 「おはようございます」
 声をかけると、あたかもたった今気がついたかのように、
 「あ?あ、おはよう」
 と口の中でモゴモゴいいます。
 「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」どの時間帯も同じ。いつもこちらから声をかけて、「あ?あ・・・」となります。
 歩いていて姿が見えると、つい思ってしまいます。
 「あーあ。また、あ?あ、かあ」
なんだか、うんざり。たまには自分から挨
拶したっていいじゃないの。何回か、気がつかなかったふりをしてみましたが、先方からの挨拶はなし。ウヌー。
        *
 よく年配者が、
「最近の若いもんは挨拶しない」
というけれど、しないのはあんたの方なんじゃないの?つまり「挨拶されない」っていっているんじゃないの?
 どうして自分から挨拶しないのよ。10回に1回くらいしたっていいじゃない。
 じつは、この「挨拶しない」輩というのは、この方に限らないのです。多くの夫さんたちは、こちらが挨拶しない限り挨拶しません。ご近所の美人の奥さんに(私のこと。念のため)挨拶したらバチが当たるとでも思っているのかしらん。
私、我が夫にはいつも言い聞かせています。近所の人達に、自分から挨拶してよね。顔売っておいてね。何かあったら助けてくれるのは近所の人なんだからねと。
 とにかく、その方はいつもブラブラ歩いていて、私が挨拶するのを待っています。
「このお、ブラブラおじい!」
いまいましくて、腹が立ってという状況が数年続きました。
       *
 ところがある日ふと気がついたのです。
 あの方が、ブラブラ歩いてくださるおかげで、最近空き巣がなくなったんじゃないかしら。防犯になっているんじゃないかしらと。このあたりは、お向かいも、二軒先の家も、なんと夫さまが警視庁にお勤めの方の家にも空き巣が入っています。
放火だってかつては「注意!」の回覧板が回ってきたこともあります。
 そうかあ。「ブラブラおじい」だなんて、なんと畏れ多い。もったいない。あの御方は、この辺の守り神なんだ。子どもの通学路の安全にも、一役買ってくださっているんだ!!
 これに気がついて以来、私はにこやかに挨拶するようになりました。
「おはようございます」
「こんにちは」
「今晩は」
しっかりフラブラしていてくださいね。
 ブラブラ、大いに結構、我が夫にもブラブラしてもらおう。あそこの家にも、こっちの家にも、定年後閉じこもっているおじいがいる。みんなで盛大にブラブラしてもらったら、幼児も、学童も、若い女性も、徘徊している人もみんな安心だ。
 今の時代、必要なのはブラブラ文化。
おばあも一緒にブラブラしよう。今日もまた、あのブラブラの御方は、神々しくブラブラしています。ブラブラおじいに乾杯!
 ブラブラおじいに乾杯

 その方の家は、駅に向かう道筋にあります。ここ数年、よくブラブラ歩いています。聞くところによれば仕事を息子さんに譲ったそうです。今は多分八十代に入ったところでしょうか。足元が少し危なくなってきたようですが、それでも、いやそれだからこそ、一生懸命にブラブラしているようなのです。とても優しそうな顔をした方で、穏やかな雰囲気の方なのですが、狭い道をふさいでいますので、なんとなく邪魔に感じます。
        *
もしかたして、私が通るのを待っているというの?
まさかあ、老いらくの恋っていう風情じゃないよ。モモ引きにサンダル履きじゃさあ。
その昔、私が通るのを待っていた中学生がいたっけなあ。ふふん。
 昔のことはともかく、今私はこの道を歩かねば駅に行かれないのです。私が近づくと、なんとなく無視しようとしている態度にも思えます。あるいは照れていて、さあどうしようかと、内心うろたえているかのかもしれません。顔を反対方向に向けて、何かを見ているふりをします。
 「おはようございます」
 声をかけると、あたかもたった今気がついたかのように、
 「あ?あ、おはよう」
 と口の中でモゴモゴいいます。
 「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」どの時間帯も同じ。いつもこちらから声をかけて、「あ?あ・・・」となります。
 歩いていて姿が見えると、つい思ってしまいます。
 「あーあ。また、あ?あ、かあ」
なんだか、うんざり。たまには自分から挨
拶したっていいじゃないの。何回か、気がつかなかったふりをしてみましたが、先方からの挨拶はなし。ウヌー。
        *
 よく年配者が、
「最近の若いもんは挨拶しない」
というけれど、しないのはあんたの方なんじゃないの?つまり「挨拶されない」っていっているんじゃないの?
 どうして自分から挨拶しないのよ。10回に1回くらいしたっていいじゃない。
 じつは、この「挨拶しない」輩というのは、この方に限らないのです。多くの夫さんたちは、こちらが挨拶しない限り挨拶しません。ご近所の美人の奥さんに(私のこと。念のため)挨拶したらバチが当たるとでも思っているのかしらん。
私、我が夫にはいつも言い聞かせています。近所の人達に、自分から挨拶してよね。顔売っておいてね。何かあったら助けてくれるのは近所の人なんだからねと。
 とにかく、その方はいつもブラブラ歩いていて、私が挨拶するのを待っています。
「このお、ブラブラおじい!」
いまいましくて、腹が立ってという状況が数年続きました。
       *
 ところがある日ふと気がついたのです。
 あの方が、ブラブラ歩いてくださるおかげで、最近空き巣がなくなったんじゃないかしら。防犯になっているんじゃないかしらと。このあたりは、お向かいも、二軒先の家も、なんと夫さまが警視庁にお勤めの方の家にも空き巣が入っています。
放火だってかつては「注意!」の回覧板が回ってきたこともあります。
 そうかあ。「ブラブラおじい」だなんて、なんと畏れ多い。もったいない。あの御方は、この辺の守り神なんだ。子どもの通学路の安全にも、一役買ってくださっているんだ!!
 これに気がついて以来、私はにこやかに挨拶するようになりました。
「おはようございます」
「こんにちは」
「今晩は」
しっかりフラブラしていてくださいね。
 ブラブラ、大いに結構、我が夫にもブラブラしてもらおう。あそこの家にも、こっちの家にも、定年後閉じこもっているおじいがいる。みんなで盛大にブラブラしてもらったら、幼児も、学童も、若い女性も、徘徊している人もみんな安心だ。
 今の時代、必要なのはブラブラ文化。
おばあも一緒にブラブラしよう。今日もまた、あのブラブラの御方は、神々しくブラブラしています。ブラブラおじいに乾杯!


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生きていく日々に

生きていく日々に

2019.6.16

 地域の成熟と好奇心

つい最近、ある方のエッセイを読んでいたら、こんなことが書かれていました。
「ひと昔、ふた昔前までなら、たとえ知的や精神的、身体的にハンディがあっても、支えてくれる家族があり、地域がありました」
文脈として、10年前、20年前、つまりは「ひと昔」「ふた昔」の人の親切や愛情の深さを回顧しています。それに比べて、現代の人の薄情さよ。それを嘆いて、反省をうながすというものでした。昔を賛美して、その比較で現代の薄情さを憂え嘆く。その気持ちも分からなくはないのですが、しかし、読んだ瞬間、
「違う」
と、私は思いました。
「50年前の昔の人だって、けっして愛情深くはなかったし、支えてもくれなかった。それどころか、不幸な家族への偏見や好奇心は今よりもずっと強かった」
よく、昔の人情の篤さを懐かしんで、
「昔は、味噌・醤油や米の貸し借りがあった。それに比べて現代は・・・・」
という人がいます。貧しい中での助け合い。その心根の優しさ。それを懐かしくいうのは結構ですが、その昔とて、けして美しいものではありませんでした。味噌・醤油を借りに来た人に、「ないといいなさい。ないと」という声もあったのです。
                 *
 私には、小児麻痺で知的障害のある姉がいます。異母ですが、姉妹として育ちました。
彼女に対する“地域の人々”の好奇心。心無い言葉の数々。けして支えるどころか、「先祖のたたり」などといって、辛い状況にいる家族をさらに辛くさせる、地域やご近所の目と口にどれほど苦しんできたでしょう。差別的な言葉を投げつけられて、どれほどいやな思いをしてきたことでしょう。
友人の中には、彼女へのなみなみならぬ好奇心が、今だに消えない人もいます。
ある夜、電話がかかってきます。
「あなたの病気のお姉さん、どうしているの?」
彼女は、一度も姉に会ったことがないのです。もうお互い老境に入っているのに、まだ不幸な家族への好奇心を捨てられないのです。こういうことが、今でも数年に一度はあります。昨年は大豊作で三回もありました。
私は内心、「またかあ」と思い、「あなた、その好奇心に、お金いくら払う? もし私が困っているのよ、100万円出してといったら、出してくれる?」などと思ってしまいます。でも、気持を抑えて、答えます。
「元気よ」
 正直なところ、私が元気でいられるのは、彼女を日常的に忘れているからで、電話があるたびに元気を失い、ウツ気味になってしまいます。
今は遠くに離れて暮らしているので、彼女は民生委員さんにも行政にもお世話になっています。このことには深く感謝しています。彼女のことで悩んでいた時、当時厚労省にいた方がいってくれた言葉は忘れられません。
「あなたのような人を救うために、国はあるんですよ。行政のお世話になりなさい」
この時私は自分の非力を思ってさんざん泣きましたが、救っていただいたと今でも深い感謝の思いは忘れません。
               *
トルストイは、アンナ・カレニーナの冒頭にこういう意味のことを書いています。
「幸福な家庭は一様だけど、不幸な家庭はさまざまである」
世の人の好奇心も、それが故にさまざまな形で現れてくるでしょうか。
今私は、その姉のことを本に書いたらどうかといわれて、大変悩んでいます。勧めてくれる人は好奇心でいっているのではないと思いますが、世間様というものが、どれほど残酷で、不幸な家庭をおもしろがるか、その傷口が癒えない私には、とうてい書く勇気などありません。
しかも姉は、10年ほど前「ほんとうの父さんが見つかった」といってきました。母は違うにしろ、父は同じだと思ってきたというのに、父も違うのか・・・。
まったくの他人?
父も母もこの世の人ではありませんから、確かめるすべもありません。彼女のことで苦しんできた私の人生は何だったのだろうと、思えば思うほど涙がにじんできます。
私も人生の晩年を迎えて、心静かに残りの時間を生きていきたいと思います。どうぞお願いですから、好奇心で私を苦しめないで。
 社会や地域の成熟には、そっとしておくということもあると思います。それが一番大事なことなのではないでしょうか。


インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2019-06-16 18:27

生きていく日々に

十勝平野・池田町から始まった人生

 NHKの朝の連続テレビ小説で、十勝平野が舞台の「なつぞら」が始まりました。屋内場面での画面の暗いのが気になりますが、山野の風景には、懐かしさがこみ上げてきます。
主人公は、私よりも少し若いけれど、ほぼ同じ年齢の設定です。同時代を生きたわねえ・・と共感します。私はなっちゃんよりもずっと怠け者だったよと思いつつ。
北海道弁も懐かしい。時々は、突っ込みを入れます。言葉はもっと重く発音するんだよとか、当時は「さよなら」でなくて「さいなら」といっていたよとか、1950年代半ばの頃、「アニメータ」という職業が、十勝の高校生の夢にあったのかしらんとか。
 でも、毎朝北海道弁がテレビから流れてくるのが嬉しくて、当時の建物が懐かしくて、毎朝欠かさずに応援しています。
                *
私の父はポッポ屋の転勤族で、道内各地を動いていた人です。
出身地と聞かれてよく困るのは、大枠で「北海道」というのはいいのですが、出世地をいわれた時です。生まれたのは室蘭ですが、その後大樹、釧路、中標津と移動し、やがて池田に転勤したので、どこをいっていいか分からないことです。その池田で父が大病をしたために、7歳から18歳までの11年間を十勝平野の池田で育つことになりました。だからよく「室蘭生まれの池田育ち」というのですが、生まれた地も懐かしいけど、育った地も懐かしいと両方の思いがありますね。1歳半までしかいなかった室蘭と、人生の精神形成期を生きた池田とでは、思い出の量も質も違うのですが・・・。
               *

池田に着いた夜のことは忘れられません。
昭和20年11月・・・・、霙の降る寒い夜、母の角巻きに包み込まれるようにして、池田町の鉄道官舎に着いたのです。小学校1年生でした。
 長きにわたって池田町に住むことになったのは、父が病気、当時の死病といわれた結核になったためでした。十勝平野は私の胸に青春の切ない思い出とともに、人生の扉はいかに重いか、それもまたしっかり教えてくれたのでした。
               *
 池田町での最大の思い出といえば、昭和22年(1947)4月30日、第一回統一地方選挙のことです。今年も統一地方選挙がありましたが、この選挙のたびにあの頃のことを思い出します。この日が我が家族の歴史を決定づけることになりました。
 いうまでもなく昭和20年、日本は民主主義、基本的人権の尊重を含むポツダム宣言を受託しました。同年9月には、女性の参政権を謳った対日管理政策が発表され、12月17日には、衆議院議員選挙法の改正が決まりました。
翌年4月には第22回衆議院選挙、昭和22年4月には初の参議院議員選挙、その10日後の4月30日には都道府県議会議員、市区議会議員、町村議会議員の選挙が行われたのでした。
             *
 父は、池田町町会議員選挙に、国鉄をバックにする社会党(当時)から立候補しました。結果は上位当選で、町村議会議員18万3224人の一人になりました。ちなみに女性は677人、女性比率は〇・4パーセントでした。
 町会議員。明治維新後の移住の貧しい家に生まれた父は、ささやかな栄光を手に入れました。しかしこのことが一家を病と貧困の連鎖に誘い込む最初の一撃だったとは、誰が想像したことでしょう。
 病気は、結核。過労が原因だったのではないでしょうか。それは、「国鉄定員法」、助役としての立場と労組の立場とのジンレンマで、腕組みをしたまま夜を明かしたことを見ています。その頃(1949年)には、「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」など国鉄三大ミステリー事件というものがあり、父が喀血したのは、その年の秋でした。私、5年生でした。
 結局父は一期をまっとう出来ず、その後は挫折の人生を生きました。長い闘病とその後の母の病、そのために起こったさまざまな家族の嘆き、苦しみ、涙。
 そんな中でも、私は元気な女の子でした。だいたいが飛んだり跳ねたりするのが大好きなお調子者だったので、小学、中学、高校とたくさんの同級生に囲まれて、運動会や学校祭などいい思い出もたくさんあります。初恋の人もいました。初恋のあった場所が故郷ならば、池田は確実に故郷です。
 ただ当時の池田の人々は、女の子の生き方について、教師すらもが旧弊でした。進学の道を求めて模索する私に、「女の子の幸福は・・・」なんぞと、行く手を塞ごうとしたのです。当時の常識による善意だったでしょうが、その常識に従順でなかったことによって、私は人生の扉を開けることができたと思っています。
                *
私は時々、大きな風景を見ないと胸が詰まってきます。広々とした風景を前に深呼吸をして、ようやく精気を取り戻します。そんな時私はいつも池田町の清見カ丘から眺めた十勝平野を思い出します。自分の手と足で汗を流すことの尊さを教えてくれたのが、あの大地と大空だったと深く感謝します。燃え上がる夏の緑、舞い飛ぶ極寒の地吹雪、どれもこれも我が人生に深く根ざし、私という人間の核をなす彩りとなっています。
                *
 さて、なっちゃん、これから物語はどう展開するのでしょうか。楽しみにしています。


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生きていく日々に

2019.4.7

 新元号に思う

 ご存知のように、この5月1日から、元号は「令和」になります。万葉集からの出典ということで、人々は、私もまた自分の国の文化を誇りに思いました。
 元号に対しては、賛否両論があります。皆様の中にも反対の方がいるでしょう。確かに、資料などでは、西暦があり元号があり、その煩雑なこと。昭和は、+25で、西暦換算ができましたが、平成ではちょっと困難でしたね、私などは、換算表を離せませんでした。
 でも令和は簡単そう。2020年で令和2年ですから(この2並びというのがおもしろいですね)、換算も簡単です。
                 *
 私は、元号というのは、時代の意味づけに便利だと思っています。たとえば、1868年といわれてもピンときませんが、明治元年といわれれば、「ああ、あの時代ね」とすぐ分かります。「時は元禄15年」といわれた方が、「時は1702年」といわれるよりも、分かりやすいですね。
 私は歴史には疎いので、すべて、元号がいいとは思いません。元号で覚えていたり、西暦で覚えていたり、バラバラです。西暦の方が語呂合わせにいいものがたくさんありますし。でも、元号も日本の文化として、大切にしていきたいと思っています。
 「両方、あっていいじゃない?」と。
                 *
 そんな私ですが、昨年、母方の祖父の評伝を出版しました。この時は、元号をあげ(  )で、西暦をいれた場合がいくつかありました。
 書名は「北のあけぼの」。明治時代に、「北海道開拓の基礎は初等教育にあり」と、小学校長を歴任した男の一生の物語です。
明治という時代をどう捉えるか、諸説あります。「明るい坂を登った時代」であるかもしれませんが、その反面、悲嘆と苦難を背負った時代でもありました。
昨年は明治150年でしたから、こういう男もいたと知って欲しくて書きました。章立てなどは、HPを見てくだされば幸いです。
                *** 
 以下、内容について概略します。
                 *
 諺を見ると、悲運に見舞われた人を励ます言葉は、たくさんあります。「七転び八起き」「塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄の如し」「大凶は吉に返る」などなど。こういう言葉によって人々は我が身を励まし、再起を誓ってきたものです。
「どん底に落ちた人でも必ず救いがあるものです」と。
 我が祖父(母方)もその一人でした。彼は、全財産を火事で失うという悲惨を抱いたまま、晩年は漂泊にも似た人生を送りました。
 このほど出版した「北のあけぼの~悲運を超えた明治の小学校長」(現代書館)は、その祖父の物語です。
彼は明治維新によって家禄を失い、明治4年北海道に渡ります。当時の知識人、西周や安井息軒などの影響で、新しい思想を学び、「開拓の基礎は初等教育にあり」と、開拓使雇いの小学校長になります。そこには自由民権運動家、本多新(あらた)の支援もありました。やがて、北海道開拓の大スキャンダル「開拓使払い下げ事件」で弾圧を受け、官を解かれます。
その後、私立育成小学校を建学しました。大変評判がよく希望者が殺到したそうです。10年以上経って、校舎が狭くなったため、新築したのですが、1年後に全焼し、渡道30年の蓄積はすべて灰になりました。一家は貧窮のどん底に落ちました。そこから私の母の、悲惨としかいいようのない人生が始まりました。
放火の疑いもありましたが、真偽は不明です。
 その後、祖父は網走小学校の校長として赴任し、その地で「日露戦役記念網走図書縦覧所」を創立しました。それが北海道初の図書館として100年以上も続き、現代に至っています。
 彼はそういう後世のことも知らず60歳で、悲嘆のうちに命を終えました。明治44年(1911年)のことでした。まさに、「明治の男」の、苦難に満ちた人生でした。
                *
 人生は柩の蓋をして初めて完結するといいますが、祖父はその後100年以上も、網走の人々によって志が継がれています。まさに、「大凶を吉に返した」人生でありました。努力して生きた人間の生には、どこかここかに光があると思えてなりません。
                *
 「明治の男」「明治の女」という言い方がありますが、そのように一括してしまうことに、反対の意見もあるようです。意見はいろいろあるからこそ、おもしろいですね。
 さて、「令和」はどういう時代として、後世評されるのでしょうか。多分そこまでは生きていられないと思いますが、戦争も災害もない、穏やかな時代であり、男女共同参画社会が進むように、心から願っています。


インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2019-04-07 10:52

生きていく日々に

生きていく日々に

2019.3.7

 地域のなかの家族
                 
 地域を語る時、人はなぜかノスタルジックになる。
 「昔は、縁側から出入りしてさあ、味噌や醤油の貸し借りなんていつものことさ。人情が厚かったなあ」
 貧乏と人情。日本人の原型、故郷。
しかし、私が育った戦前戦後の北海道の田舎町では、米を借りに行った時、
「ないといいなさい、ないと」
という声を聞いた。みんな自分が生きるのに必死だった。人情のなさを責めることはできない。先の弁は実態よりも、地域というものが与えていた安心感をいっていると思う。
 「幸福な家族は一様だが不幸な家族はさまざまである」
いみじくもトルストイがいったように、“あれこれを抱える家族”は非常に多い。
地域はそういう家族を孤立させてきた面もある。家族が地域を受容するには、“さまざまさ”に共感し、安心をもたらしてくれるまなざしである。
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時代の推移の中で、家族を“現代家族”、地域を“現代地域”とでもいっていい変化が現れた。ノスタルジアの世界とは違う新しいまなざしが、地域力を形成しつつあると思う。
私が地域の人々と関わるようになったのは、子育ての時期だった。この時私は初めて“自分の弱さ”をさらけ出せる“強さと勇気”が持てたのだと思う。地域を“選び取る人間関係”として受容できた。
「仕事と子育を両立させたいのです、助けてください」
その頃私は埼玉県の団地に住んでいて、この新しい住宅環境の明るさが、私に強さを与えてくれていた。団地新聞などのミニコミ紙も活気があって、そこに載っているさまざまなサークル活動情報や求人情報、意見の投稿などが私に与えた影響は大きかった。
こうして出会った方に8年間も子育てを援助していただいたこと、これが私の“地域デビュー”となった。“自分の弱さを認める強さ”と“生き方の支援を求める切実さ”があった。これは地域と関わる上で重要な要素だったと思う。そして私は思った。
「他人様というのは、ありがたいものだ」
子育ての知恵を授けてもらい、子どもは可愛がられてもう一人のママのようになつき、ここから“他人幸せ”という言葉が私の胸に生まれてきたのだった。
だから、昨今の専業主婦の子育て孤独、不安感、イライラなどに対して、“地域で子育てを”といわれるようになったのは、母親にとっても子どもにとっても救いであると思う。昔は・・・といういい方に拒否感のある私だが、確かに昔は、子どもは多くの仲間と道端で遊び、母親は井戸端会議に余念がなかった。現代は新たな井戸端として、NPOなどがさまざまな子育てサークルを作り、“つどいのひろば”事業などが盛んになっている。これらは、どれほど母子に元気をもたらしていることだろう。
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考えてみれば、かつて地域の中に血縁がたくさんいて、それが地域の構成メンバーであった“昔”と、地域が他人で構成されるようになった“現代”とでは、その関係性には違いがあって当然だ。その一方で、選び取った関係にある“地域”が持っている人間力、仲間力、地域力というようなものは、人間が人間である限り血縁もそうでない人も変わらないような気もする。血縁に代わる地縁、知縁、いわゆる“結縁”というものがいわれるようになったのも、“昔”のような安心感や友情が欲しいという人々の願いの結果だろう。
さらには家族単独だけでは乗り切れない事態も多くなった。“地域”と“家族”の新しい関係性、“いい関係”が生まれてきている。
私達の他人を見る目にも“節度”という磨きがかかってきているように思う。地域の中でともに活動していく時に、「知らなくていいことは、知らなくていい」という暗黙の了解が成立してきている。よく「隣は何をする人ぞ」と、悪いことのようにいわれるが、今後この言葉も検討が必要だと思う。程よい距離で平穏な毎日ならば、職業は何で、家族・親族はどうで、子どもはどこの大学でなんぞと探りを入れない方がいい。退職シニアが前職の地位を語らないというのも節度だ。
その一方で過剰な個人情報保護、これも問題だと思う。不幸な状況に陥るのは決して他人事ではない。さまざまな危険、災害、犯罪、どれもこれも明日は我が身である。“一人暮らし情報”も犯罪からは隠したいが、然るべき行政には知っていてほしい。
家族が自分の弱さを確認できる強さを獲得した時、切実に助けを求める時、自分に欲しい人間関係として他人との絆を結ぶ。それは一方的に頼るものではなく、対等な関係として、場合によっては金銭による謝礼が入っても、それはそれでいいと思う。
だから前回書いたような母親だけが介護している遠縁の者も、介護がいよいよ困難になった時は、新しい強さと切実さでもって家の扉を開けるだろう。
地域は今急速に高齢化している。高齢者同士が助け合う場、幼き子らへの文化伝承の場として、現代地域は新しい姿を見せ始めてきている。


インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2019-03-08 10:03

生きていく日々に

生きていく日々に
2019.2.11

 地域に開かれた家族に

親戚に重度の身体障害者がいる。彼は大学時代にオートバイ事故で脊椎を全損、首から下は動かない。以来30数年、母親が介護している。その母親も80代半ば。
 普通に考えれば、ホームヘルパーさんを頼むところだが、彼女は民生委員すら玄関に入れないという。じつは私も、会わせてもらっていない。医師の往診とか訪問看護は受け入れているようだが、それ以外の人間には会わせたくない。入浴は兄が抱きかかえていれていると聞いた。
 もう30年以上も前の事故だし、私がその場に居合わせたものでもないので、話は一方的なのだが、事故直後の関係者の態度は「自業自得でしょ」といわんばかりのものであったそうだ。それは嘆き悲しみに沈んでいる本人や家族に、追い討ちをかけるようなものだった。首根っこを押さえて、より深い水中に突っ込むような言動だった。
           *
 つい最近、ある方のエッセイを読んでいたら、「ひと昔、ふた昔前までなら、たとえ知的や精神的、身体的にハンディがあっても、支えてくれる家族があり、地域があった」と出ていた。
家族の支えは了解できる。しかし、地域。この安易な地域信仰主義者は、地域の根にあるものを知っていていっているのだろうか。
障害者を抱えた家族は、用心深く扉を閉ざして初めて、自尊心が保たれる。この文章では「ひと昔、ふた昔」と書いているが、どこの地域だろう。少なくとも私の周りにはそういう地域はなかった。
 私には小児麻痺で知的障害のある姉がいる。異母ではあるが、姉妹として育った。もうお互いに老境である。彼女に対する“地域の人々”の好奇心、これはいったいどうすれいいものだろうか。50年も前に一度しか会っていないというのに、電話がかかってくる。
「どうしているの?」
ひどい場合には、姉に会ったこともない人が
「あなたの病気のお姉さん、どうしている?」
と聞いてくる。こういうことが今でも数年に一度はある。一昨年は大豊作で三回もあった。
 「あなた、その好奇心にいくら払う?」
 こういいたい気持を抑えて、「元気よ」と答える。
 正直なところ、私が元気でいられるのは、彼女を日常的に忘れているからだ。電話があるたびに元気を失う。
           *
今は遠くに離れて暮らしているので、彼女は民生委員さんにも行政にもお世話になっている。このことには深く感謝している。しかし彼らが親身であるためには、家族は元気であってはいけないのではないか、そう思うこともある。
福祉事務所の人にこういわれたこともある。
「貧しい家族の方々は助け合いますね。金持ちは冷たいもんですよ」
その皮肉めいた口調に飛び上がった。彼女が生きている限り50年でも60年でも、貧しくあることがお世話になる条件なのだ。家族は幸福になってはいけない。そういう監視の目がいまだに地域にはあるのではなか。家族は要塞と化して、外部を一切遮断する。
韓国籍で脳性小児麻痺の女性が語ってくれたことがある。彼女の姉はこういったそうだ。
「あんたとは、姉でも妹でもないからね」
姉が元気で生きるためには、縁を切るしかないのだ。いったい誰が、何がこの姉妹を引き裂いたのだろうか。
この姉は、地域の目や口から我が身を守るには、弱い妹に銃口を突きつけた。そういうことではないだろうか。私も姉を殺したいと思ったことがある。今でも刃物恐怖症だ。
          *
今家族は危機をもって語られている。子から親へ、親から子へ、夫から妻へ、妻から夫へ、家族は暴力の舞台となった。
最近も幼い女の子が、父親からの虐待で死亡した。目黒区の事件に続いて、今度は野田市だ。それこそヒト昔なら、考えられなかったことだ。いったいそこには、どんな家族の病理があったのだろう。
いずれも福祉の専門家が関係していながら、助けられなかった。家族が要塞化した時、それを突き破るだけの知恵が、地域から消えてしまったのだろうか。弱い立場の者を見捨てたのではないだろうか。
地域は冷たい目で家族を裁き、家族をますます要塞化させ、その中で悲劇が起こる。
地域は困難を抱える家族を攻撃し、弱体化させ、弱い者をますます追いやる。そういう不寛容を知りつつも、しかしながら家族を強くするのは地域だという期待もまた強く持っている。
「家族を地域に開きましょう。玄関の扉を閉じていては自爆しますよ。世間体なんてなんぼのものですか」
介護疲れをしているたくさんの“嫁”達に、“妻”達に、こう語ってきた。
この場合地域は、家族を非難しない、好奇心の目で見ない、静かにしておいてくれる関係。家族を励まし、元気や幸福を許す関係。
地域がその家族のあるがままを受け入れない限り、家族危機は解消しない。さらに家族への過剰な賛美。あるべき家族論。これも家族を疲弊させる。
「家族っていうのはいろいろなのさ。愛情もある代わり、憎しみもあるのさ。それが普通さ。昔も今もね」
家族がその弱さを安心してさらけだせるかどうか、そういう地域であるかどうか。
家族が地域や専門家を信用し、安心して家族の扉を開くかどうか。家族の問題はここにかかっている。冷たい好奇心で家族を覗こうとはしない、それは、地域の成熟、つまりは人々の共感や寛容が成熟しているかどうか、そういう問題であるともいえるのではないだろうか。


インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2019-02-14 13:33

生きていく日々に

老いの品格考
       
 高齢期の大敵は、“退屈と孤独”だといわれます。しかし“孤独”には豊かな孤独と悲惨な孤独、つまり孤立とがあり、ここはむしろ“退屈と孤立”というべきかもしれません。
 最近話題の“孤独死”の研究によれば、初老期の男性に多いとか。身寄りがあっても、
「わしはお前らの世話にはならん」などといって、自ら殻に閉じこもってしまう、まさに孤立状況です。
 家族の中にあっても、何の役割も持たずに、ひたすらテレビの前に座り続け、
 「うちの亭主は、お尻がソフアにへばりついているのよ」
 などと女房を嘆かせる人も少なくはありません。
家からもほとんど出ずに、やるといえば犬の散歩。女房も書きます。
 「定年後 犬もいやがる五度目の散歩」
 他にも女房の嘆き節は数々。
 「新婚の頃の日記のアホくささ」
 「『ダンナいる?』『いりませんよ』と妻が切り」
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 依然として減らない自殺も初老期男性に多いと聞きます。
 閉じこもって孤立する男性も、自ら命を絶つ男性も、その苦しみは尋常なものではないと思います。思うようでなかった人生、引け目を感じる苦痛、恥ばかりが胸に降り積もる晩年。
ウツ傾向もあるかもしれませんが、他人には明かせない苦悩は沼のように命を呑み込んでしまうのでしょう。
もし、その方が弱みをさらけ出すことが出来れば、そして多くの仲間を得れば、追い詰められなかったのではないかと残念です。ここには、この年代の男性が育った時代の反映があるようにも思います。
 「男のくせに。男らしくない」
 こうした言葉の背景には、男は強いもの、心のうちを吐露しないもの、立身出世し故郷に錦を飾るものなどなどの刷り込みがあるのではないでしょうか。老年期になって苦しむ男性は、時代の精神の犠牲者だったかもしれません。“らしさ”の影響は家庭生活にまでおよび、家事をしないことが男の有能さの証明になりました。
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その一方で、定年後地域に溶け込んだ男性も多くいます。
その方々の特質としては、上下意識がない、男尊女卑観がない、昔の自慢話をしないなどがいわれておりますが、この“男らしさ”の罠に気づいて、自己変革をしていった方々のように思います。
介護を熱心にする男性も多くいます。ある調査によれば、「夫の介護をしたい」妻3割。「妻の介護をしたい夫」5割と、驚くような数字もあります。
「妻の身体を通して出てきたものに、汚いものがあるか」
といった詩人もおります。モレ出たおしっこを、手で受け止めたと・・・。そこには人間の質が現れてくるように思います。
老いの品格は、病の時にこそ見えてくるといって過言ではありません。
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ヘルマン・ヘッセは、「老年の価値」(朝日新聞社)の中でこう書いています。
「成熟するにつれて人はますます若くなる」
それは少年時代の生活感情を、ずっと持っていることとも関係するとも書いています。
今老いの日々を生きる私たちは、少年少女期の、“らしさ”に汚される前のあのひたむきな向上心、周囲の人々への思いやりや友情、素直さ、そういうものを思い起こす必要があるのではないでしょうか。そういう心を持つことが、「老いの品格」に近づく一歩と思えてなりません。


インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2019-01-20 13:34