人気ブログランキング | 話題のタグを見る

老いていく日々

2021.11.20
   
   ネパールのおなご先生育成

 「本協会は、本年12月31日をもって、すべての活動を終了します」
 このお便りは、「NPO法人日本ネパール女性教育協会」理事長の、山下泰子先生からいただいたものです。先生は文京学院大学名誉教授として、多くの後進を育ててきた方ですが、さらにこの10年余、「ネパールの山村の少女に教育を」という高い理想のもと、ネパールと日本を往復しながら活動なさってきた方です。
 お便りは続きます。
 「本協会の設立目的であった、毎年10名ずつの遠隔地の少女を選抜して、ポカラの地で2年間の教育を行い、10年間で、総計100名の優秀な教育力を持つ女性教師「おなご先生」を養成し、卒業生たちが、自分の故郷で、教師としての活動を継続するために、給与の支援をはじめとして、できるだけの支援を行い、さらには、彼女たちの教育力の向上のためにフオローアップセミナーや赴任地訪問を実施するなど、卒業後の支援を行うという任務を完遂することが出来ました」
                 *
 先月この欄で、ネパールに行った話を書きましたが、その旅は単にエベレストを見物するだけでなく、山下先生の事業の10周年記念シンポジュウムに参加するためでした。その会には各地で活躍している「おなご先生」たちが集まり、じつに盛大で、華やかなものでした。
ポカラ女子大学で勉強する学生のためには、宿泊施設が必要だとして作った「さくら寮」も拝見させていただき、先生がこの事業にかけてきた「情」と「熱」さらには、『理想』を実現させていくエネルギーの大きさを実感したものです。
 先生は、この事業を、壷井栄の小説「二十四の瞳」の大石先生から着想したそうです。「おなご先生」というのは、その小説に出てくる言葉です。
 どこの国もそうでしょうが、ネパールでも農山村に住む女の子の教育は遅れています。先月のこの欄で少し触れましたが、ネパールにはいまだ「女の子には教育なんていらない」という父親がいます。そういう人にも教育の大切を知ってもらいたい、そのためにも同じ村から出たおなご先生は貴重な役割を持っています。
しかも、山村によっては言葉も違い、都会での標準語で話す先生の言葉が理解出来ないという現実があります。だからその村の女性を教師として育成し、卒業後はその村に帰ってもらい、村の言葉で教育してもらうというのが、この事業の始まりでした。
なんという着想のすばらしさ。まさに、これが「おなご先生100人教育」の原点にありました。
 このNPOでは、給与の保障だけでなく、実際にその村を訪れ、現地での実態を調べてアドバイスするということもやっていました。道なき道を登り、危険な山道を辿りながら、責任を果たしていくという、先生をはじめNPOの方々のその行動力、誠実さにも感動しました。
               *
 山下先生のお話を伺って大変驚いたのは、「生理小屋」の存在でした。生理がくると、その期間、家族と離れてそういう小屋で生活するというのです。しかも、地面に茣蓙を敷いてショールにくるまって寝るので、凍死するケースもあったりするそうです。そればかりか、獣に襲われたり、レイプがあったりするそうです。大変危険で、不衛生な生活を強いられています。国は法律で禁止していますが、山村の人々の意識と行動を変えるのは容易ではないということでした。そのためにも、おなご先生を育成して、山村に帰していく、この教育の理想の高さに改めて敬服しました。
 この活動団体は、着実に理想を実現させて、今年の12月31日で閉会になります。会は閉じられますが、ネパールの山村には大輪の美しい花が咲きました。それは、多くの種をさらなる大地に蒔き広め、ネパールの女性達の一生を大きく変えていくでしょう。
 この10年余、山下先生をはじめ、NPOに関わった多くの方々、ほんとうにお疲れ様でした。ありがとうございました。


インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2021-11-19 23:46

老いていく日々

2021.11.20
   
   ネパールのおなご先生育成

 「本協会は、本年12月31日をもって、すべての活動を終了します」
 このお便りは、「NPO法人日本ネパール女性教育協会」理事長の、山下泰子先生からいただいたものです。先生は文京学院大学名誉教授として、多くの後進を育ててきた方ですが、さらにこの10年余、「ネパールの山村の少女に教育を」という高い理想のもと、ネパールと日本を往復しながら活動なさってきた方です。
 お便りは続きます。
 「本協会の設立目的であった、毎年10名ずつの遠隔地の少女を選抜して、ポカラの地で2年間の教育を行い、10年間で、総計100名の優秀な教育力を持つ女性教師「おなご先生」を養成し、卒業生たちが、自分の故郷で、教師としての活動を継続するために、給与の支援をはじめとして、できるだけの支援を行い、さらには、彼女たちの教育力の向上のためにフオローアップセミナーや赴任地訪問を実施するなど、卒業後の支援を行うという任務を完遂することが出来ました」
                 *
 先月この欄で、ネパールに行った話を書きましたが、その旅は単にエベレストを見物するだけでなく、山下先生の事業の10周年記念シンポジュウムに参加するためでした。その会には各地で活躍している「おなご先生」たちが集まり、じつに盛大で、華やかなものでした。
ポカラ女子大学で勉強する学生のためには、宿泊施設が必要だとして作った「さくら寮」も拝見させていただき、先生がこの事業にかけてきた「情」と「熱」さらには、『理想』を実現させていくエネルギーの大きさを実感したものです。
 先生は、この事業を、壷井栄の小説「二十四の瞳」の大石先生から着想したそうです。「おなご先生」というのは、その小説に出てくる言葉です。
 どこの国もそうでしょうが、ネパールでも農山村に住む女の子の教育は遅れています。先月のこの欄で少し触れましたが、ネパールにはいまだ「女の子には教育なんていらない」という父親がいます。そういう人にも教育の大切を知ってもらいたい、そのためにも同じ村から出たおなご先生は貴重な役割を持っています。
しかも、山村によっては言葉も違い、都会での標準語で話す先生の言葉が理解出来ないという現実があります。だからその村の女性を教師として育成し、卒業後はその村に帰ってもらい、村の言葉で教育してもらうというのが、この事業の始まりでした。
なんという着想のすばらしさ。まさに、これが「おなご先生100人教育」の原点にありました。
 このNPOでは、給与の保障だけでなく、実際にその村を訪れ、現地での実態を調べてアドバイスするということもやっていました。道なき道を登り、危険な山道を辿りながら、責任を果たしていくという、先生をはじめNPOの方々のその行動力、誠実さにも感動しました。
               *
 山下先生のお話を伺って大変驚いたのは、「生理小屋」の存在でした。生理がくると、その期間、家族と離れてそういう小屋で生活するというのです。しかも、地面に茣蓙を敷いてショールにくるまって寝るので、凍死するケースもあったりするそうです。そればかりか、獣に襲われたり、レイプがあったりするそうです。大変危険で、不衛生な生活を強いられています。国は法律で禁止していますが、山村の人々の意識と行動を変えるのは容易ではないということでした。そのためにも、おなご先生を育成して、山村に帰していく、この教育の理想の高さに改めて敬服しました。
 この活動団体は、着実に理想を実現させて、今年の12月31日で閉会になります。会は閉じられますが、ネパールの山村には大輪の美しい花が咲きました。それは、多くの種をさらなる大地に蒔き広め、ネパールの女性達の一生を大きく変えていくでしょう。
 この10年余、山下先生をはじめ、NPOに関わった多くの方々、ほんとうにお疲れ様でした。ありがとうございました。


インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2021-11-19 23:46

老いていく日々

2021.10.20

老いは新たな冒険の季節

 高校二年生の時、世界史と世界史地図を習いました。それは北海道十勝平野、片田舎の高校生にとって、目からうろこが飛び散る衝撃でした。
「この世には世界がある。世界には国家や民族興亡の歴史がある」
この時私は、死ぬまでに見るべき三つのものを決めたのです。4000年前のピラミッド、2000年前の万里の長城、現代の当時最高の高さだったエンパイアステートビル、時代を画する三つの巨大建造物。
「この三つを見るまでは、死んではならない。絶対に見る!」
当時昭和20年代の終わり頃、岡春夫の「あこがれのハワイ航路」の時代でした。
「貨物船で行こう。掃除婦でも皿洗いでも、働きながら行こう」
ところが社会は音をたてて変わり、飛行機が普通の移動手段になりました。私は簡単にこの三つをクリアしたのです。五十代の半ばでした。念願してからほぼ40年が過ぎていました。
「さて、次は、何の三つを見るか」
新たな目標が必要になりましたが、それがなかなか決まりません。
「ま、何も三つと決める必要もないし・・・」
そんな時、七十代も後半になって、友人からネパールへ、エベレストを見に行かないかと誘われました。当然、「行く、行く」と二つ返事。夫が亡くなり、ひとり暮らし暦二年の頃でした。晩年に見るべき三つのもの、その一つをエベレストと決めました。同時に残りの二つも決めました。あとは実行あるのみです。
            *
 私が好きな作家に、米国でフエミストとしても名高いベテイ・フリーダン(故人)がいます。作品の中に「老いの泉」(西村書店)があり、その中でも18章「老いは新たな冒険の季節」が、一番のお気に入りです。
 「老年が私たちに強いるとも解放するともいえる冒険、新しい体験が子どもの頃から長すぎるほど引きずってきた不要な重圧や重荷、二度と経験したくない青年時代の欲求不満を軽減してくれる」「なんという解放感だろう」
 胸に光がぱっと点りました。そうなのです、老いは夢の実現期、冒険の季節なのです。
 67歳の男性は、こういったといいます。 
 「男ってものは、ひざまずいて生きるより、立って死ぬものだ。家でおとなしく寝ているなんていやだよ」
 70歳代半ばにある女性は、浴室の床ですべって首の骨を折ってしまいました。それでも新しい夫と、フランスの赤ワイン賞味の旅行に出るといいます。
 「赤ワインは、医者からもらっている薬よりも、帯状疱疹によく効く」
 作者は、またこうも書いています。
 「老年そのものがー人類のみにみられる独特な現象として、生殖を終えても寿命は終わらないー進化の上で重要な役目をおっているに違いない」
 この私がどのような役目をおっているのか、それは分かりませんが、ともかく元気で老いを生きる姿を孫達にも見せておきたいと思います。
 高齢期の冒険は、当然ながら旅行ばかりではありません。ある出版社の元編集長は、数々のベストセラーを出した人ですが、退職後、大方の予想を裏切って農業学校に入りました。以来10年余、農業ボランテイアとして各地の農家と契約し、季節ごとの援農に出かけます。今は、たくましく日焼けして、まさに冒険者としての面構えになりました。80歳で詩吟を始め、93歳になった現在も続けている女性もいます。
老いは、若き日の夢の実現期、新しいことを始める時期なのですね。思い切った方向転換で、たくましい老いを生きている人は少なくありません。必要なのは、前に進む勇気でしょうか。
               * 
 さて、そのエベレスト。それを見るには、ほぼ4000メートルのところにある、ホテルまでヘリコプターで飛ぶ必要があります。富士山よりも高い所です。日本人が建てたものだと、後で知りました。
私は若い頃、1000メートル位の山に2.3回登ったことがある程度の者です。友人達は、「高山病になる」と心配し、事前に、三浦雄一郎先生のラボで低酸素体験をさせてもらったのですが、山登りを趣味とする近所の「昔山ガール・今山バ(婆)-ル」は、いったものです。
「それだけは足りない。国内の2000メートル級の山に連れて行ってあげる。どちらもロープウエイがあり、バスでも行ける。高いところに宿泊すれば、身体が慣れるんです」
彼女はさっそく山岳用品の店に私を連れて行き、登山靴から下着までの買物を指南してくれました。
かくなる手ほどきを受けて、私は勇躍4000メートルのホテルへと飛んだのです。
「ヘリコプターは落ちるわよ」
などといって、私の大腸活動を超過敏にしてくれた人もいたけれど、ヘリコプターから眺める山野は絶景でありました。
難敵はやはり酸素でした。着いたその日から頭痛に見舞われ、滞在中はすべての夜を、酸素ボンベにしがみついて過ごすことになりました。
エベレストは絶景でした。紺碧の秋空に、全身ダイヤか真珠をまとったような輝き。その拒絶的な無慈悲さ。周辺の高峰も高貴な輝きに満ち、かつ排他的な威貌です。
ホテルの付近の村を散策すると、そこは電気もガスもない暮らし。女達は、昔の日本のようなたらいで洗濯していて、胸が詰まる光景でした。友人によると、いまだに「女の子に教育はいらない」と小学校にも行かせず、そういう子を殴り蹴る父親がいるそうです。
世界にはまだまだ知らねばならないことがたくさんある、「まことに、老いは新たな冒険の季節だ」と実感したものです。
無事羽田空港に着陸しました。そこでタクシー代を惜しんだ私、バスに乗ったのが災難でした。到着したバスを降りて荷物を持とうとした瞬間、転倒してしまったのです。救急車で運ばれて、即刻入院。第二腰椎の圧迫骨折。老いの冒険には危険も伴う。その覚悟も必要。でもこんなことでは挫けないと、私は意気込んでいます。


インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2021-10-19 20:36

老いていく日々

2021.9.20

 東日本大震災から10年

 皆様周知のように、今年はあの悲惨な東日本大震災から10年の節目の年です。今なお、帰りを待ち続けるご遺族の心情を思えば、言葉もない思いです。
 この8月末、三陸海岸を歩くツアーがあったので参加しました。被害にあった方々に、遠くからでも哀悼の思いを伝えたかったからでした。
 
 東北新幹線を一ノ関駅で降りて、バスで「気仙沼市復興祈念公園」にお参りしました。純白の慰霊塔の他に、亡くなられた方々の名前をプレートにしてある祈りの場がありました。当日、どれほどの驚きと恐怖であったかと、お一人お一人の名前に胸の詰まる思いでご冥福をお祈りさせていただきました。
リアス式海岸の入り組んだ荒々しい奇岩の群れにも驚きました。波はその岩を乗り越えて住宅地に押し寄せたのです。
 その夜は、休暇村気仙沼大島に泊まり、翌日は海岸の遊歩道を一時間ほど歩き、バスで陸前高田市に向かいました。震災遺構として保存されている骨組みだけの4階(5階?)の建物をバスの中から遠目に見て、津波の恐ろしさに胸が詰まる思いでした。人々はどんな思いだったか・・・言葉もありません。陸前高田では、バスの中からの遠望でしたが「奇跡の一本松」を拝見しました。バスガイドさんによれば、その辺りは一面松原だったということ、自然の力が暴走すると、こんなにも恐ろしいものかと思いました。
 バスに乗っている間、あちこちで、防潮堤といわれる大きな壁が見えて、もう二度とこういう災害のないことを祈らずにはおられませんでした。
 その後、開通した三陸鉄道リアス線に乗るために「盛駅」に向い、ほぼ50分「釜石」まで行きました。この鉄道も大きな被害を受けたとのことですが、2014年に全線が復旧し、久慈駅まで163Kを結んでいるとか。復興のシンボルといわれているそうです。
 
 釜石には、震災の年の8月にお見舞いに伺いました。当時は、まだ混乱の中で、町中に壊れた家があり、切ないことにご遺体が発見された場所には赤い旗が立っておりました。涙なくして見られない光景でした。
 それが10年後には、家は新しく美しく立ち並び、人々の生活も落ち着いていることが伺えました。多くの方々が、不運を乗り越えて新しい生活を送っていることに安堵するとともに、二度とあの赤い旗を見ることがあってはならないと思いました。
 下手な俳句ですが、哀悼の思いです。

 釜石や鳴り止まぬ声盆の月

 釜石からバスは北上し、その夜はホテル休暇村陸中宮古に泊まりました。その後は美しい「浄土が浜」の景観を堪能させていただきました。夜は星空が美しく、こんなにも満天の星を見たのは、何十年ぶりかと思ったものです。北斗七星、北極星がきれいでした。

 翌日は宮古駅に出たのですが、土地の人の話によれば、その駅まで津波は押し寄せたとのこと、この街もまた新しい家が立ち並んでいました。
 私の被災地への祈りの思いは、ほんの僅かなものでしたが、生きている方々が、それぞれの悲しみを抱きながらもたくましく生きておられることに、深い敬意を抱きました。わずかばかりの弔意の旅でしたが、参加してよかったとしみじみ思いました。私も先祖をさかのぼれば、東北の住人。東北人の心の強さ、優しさ、たくましさの一部は遺伝しているのではないかと誇りに思ったものです。

 巨大地震の警告はさまざま出ております。私もわがこととして、命を守っていきたいものと思っております。


インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2021-09-19 10:25

老いていく日々

2021.8.20

        受けたセクハラは、忘れない!

 最近、学校教師のセクハラが問題になっており、ようやくこの問題がクローズアップされたと、非常に嬉しく思っています。

 小学校5年生の秋、私は北海道十勝平野の田舎町、池田小学校の生徒でした。ある日、担任の小玉先生から、日曜日に自宅に来るようにいわれました。この先生は、大変なかんしゃく持ちで、気に入らないことがあればすぐ怒鳴る、叩くなどで生徒に恐れられていました。「ひいき」も激しく、私は「メンコ」といわれて、内心非常にいやな思いをしていたものです。先生は独身でした。
 その先生からの命令です。内心いやでたまらないけれど、行かないと恐ろしい目に遭わされるのではないかと、しぶしぶ先生の家に行きました。
 意外なことに先生は上機嫌で、「さあ、ここに座れ」と、自分の胡坐を指さします。小学5年生ともなれば、胡坐に入るなんてそんなことは日常生活にはなくなっています。でも、その秋、父が結核で遠い療養所に入ったので、父の代わりをしようとしてくれているのかしらと思いました。先生は後ろから腕を回して、本を読んでくれました。何の本だったか記憶にはありませんが、たいしておもしろいものではなかった。先生の吐く息が首に当たって気持ちいいものではありませんでした。
 こんな呼び出しが、2.3回あったでしょうか。ある日行くと、布団が敷きっぱなしになっています。寒い日でした。先生は、「布団に入れ」といったのです。まったく無知であった私は、いやだといえなくて布団に入りました。服を着たままです。
 その時!襖が開いて、先生のお母さんが入ってきました。救われました。どんな会話があったか覚えていませんが、その後呼ばれることはなくなりました。今にして思えば、呼び出していた生徒は私だけではなく、お母さんは「何か怪しい」と感じていたのではないかと思います。先生のお母さんが救ってくれました。
 小学教師によるセクハラ、忘れることはありません。

 その後教師からのセクハラやパワハラはいろんな形でありましたが、身体に触られたのはこの時だけでした。でも、あの時の恐怖感や嫌悪感は、今も深く心に残っております。
 高校時代に悩まされたのは、3年になってからの担任教師、武智先生からの侮蔑的発言でした。当時、昭和20年代は、女性の生き方に4大の大学に行くなんて人々の意識になかったのでしょうが、東京の国立大学の物理学科を出たこの先生も、当時の常識にまこと従順な人でした。
「女の生き方は結婚して、子を産むこと」「4大なんてどうせ落ちるんだから、短大にしなさい」などなど、私の希望を踏みにじり、一定の生き方を強制し、努力をバカにしました。三年生の秋には登校を拒否したこともありました。担任教師から励まされることもなく、逆に貶められる女生徒。時代の先を見る目のない教師からのある方向への強制、これはパワハラではないでしょうか。
 今思い出しても笑ってしまうのは、希望の4大に合格して、中学時代の恩師のところに行った時でした。先生は大変不機嫌で、「僕は大学出た女となんか結婚しないよ」と。誰が、あんたとなんか結婚するか、何考えているんだ。
 学校教師のこういう女性観のもと、前途を曲げられた女生徒は少なくないのではないかと、胸の痛む思いです。教師には、未来ある子どもたちに、時代の常識を超えて人間の生き方の基本のようなものを示してもらいたいものです。私の不運は、不勉強で常識の枠からはみ出ていない、権威主義の男権教師からの圧力でした。

 その後、社会人になってからの電車や会社での数々の痴漢とセクハラ。電車の中で、なんとズボンの前を開いて、オチンチンを見せてくれた紳士?もいましたし、新宿駅でお尻に触った痴漢を捕まえて、パトカーで警察署まで連れていったこともあります。会社にあればそこそこの中堅であろう男達の、女性へのブザマな無礼。最高にすごいのは、長野県善光寺で漆黒の「お戒壇めぐり(胎内めぐり)」を歩いている時に、お尻を猛烈に撫でた恥知らずでしょうか。地獄に堕ちるでしょう。
女性を辱めておもしろがる男たちは、男の品位がない無知無能の男です。女たちはそう見ています。

現代、痴漢は犯罪となり、教師による生徒へのセクハラも糾弾されるようになりました。いい時代になったものです。後戻りは絶対に許せないと、強く思っています。


インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by n-okifuji | 2021-08-17 11:20